ホイアンナのエーデルな日々 -5ページ目

言い訳。

単なるこじつけであっても、
自分が、そうか!と思えることは
都合よく取り込んでいきたいと思う2018。

先ほど、打ち合わせあがりのカフェにて
こんな話を耳に。

女性が、見た目とか仕事とか関係なく、
なぜか愛するという気持ちを持つ時って
相手側の潜在意識から先に愛を
送ってもらっている時なんだ、的な話。

…なんすかそれ!

ダンボリスニングでキャッチした内容によると、
女性は基本的に受け止める役割なので、
愛に呼応しているということらしい。

でも、潜在意識だからね。
潜在意識に気づけてる人って
そんな多くないしな…。

特に男性は、顕在意識で知識や経験を
積み重ねて生きてるからな。

まぁ、かくいうアタクシも、
自分の潜在意識に気づくのに
2年くらい時間を必要としておるし。

もともとの性格と、
男性に囲まれて社会人経験を
積み重ねて来たことは大きいと思う。

でもまぁ、自分の中の
どうしようもないものに対して
語ってくれる話が小耳に入ってきた
というのも、都合よく心が軽くなる
材料として使わせて頂きたい次第。


2017年を振り返った。

今日は、2017年を振り返っていた。

私は、日記をつけるのが苦手なのだけれども、

今年はなるべく走り書いておくようにして、

手帳と見比べてコンディションを振り返りまして。

 

日記には、出来事よりも、感情を

記しておくようにいたしました。

 

会社員時代は、仕事の成果が全てという感じで、

そこに付随する考え方や気持ちまで

棚卸しする感覚が持てなかったのですよね。

 

それって、実は自分を見る見方が

わからなかったって事だったのね、と。

 

パフォーマンスを安定させるために

とにかくコントロールして押し込めて、

ということをやっていたら、なにやら、

ガッチガチのフェルトみたいになっていたみたいでして。

 

その下にいろんなものがくすぶっていて、

去年と今年と、さまざまな出来事をきっかけに

ぶすぶすと存在感を現してきました。

 

結果、思うのは、

自分の波動を自分で下げていた、ということ。

そして、波動を下げて得することはなにもない!ということ。

 

あー、しくじった、しくじった。

的な側面もありますが。

この、当たり前の結論に辿り着くまでの

自称壮絶なプロセスにおいて、

一個一個学びを積み重ねて行った感じがあります。

 

フェルト固かったわあ。

 

とにかく、私は、

自分に自信がなくてバッタバッタ倒れててた。

右に左に。左右されまくり。

 

で、勝手に傷ついて波動を下げる、的な。

なんかね、自分のパターンが見えて来たんですよ。

 

そんなもの、多くの人が掴んでいるのではないか

とも思いつつ、私の場合は、全く分かっていませんでした。

 

ただ、自分はシャイなんだとか、

ただ、自分はびびりなんだとか、

そんな感じの雑な分析しかしてこなかった訳で。

 

感情を軸に、思考の癖を紐解き、

本心と照らし合わせる、なんて、やって来なかったのよね。

時間がないって言う言い訳を盾に。

だから、時間かかったわあ。

丸2年かけて、フェルトをつついて、引っ掻いて、

場合によっちゃ煮沸したり、染め直したり、大騒ぎ。

 

プロセスの最中では辛かったんですが、

いい時間でした。ありがとう2017。

 

そして、沢山の気づきをくれたあの方に、

心からの感謝と愛と、大好きという気持ちを。

夜中って。

なんか、やっぱり、
夜中に思い立って書いたことって
余計なこと書いた感出ますな…。

でもまぁ。
防備録みたいなもんすから。
いいんじゃないの、自分。
やっぱね、過去を振り返る系は
余計な感じ出る。(しつこい

それよりか、自分のなかにある
気持ちを見つめて
毎日を大切に生きたいわー!

このブレスレットは、
自分の気持ちを大切にしよう、
と決意した時に買ったのだ。

どうしても愛と感謝が溢れ出るなら、
無理に変えようとしないで、
その自分に自分を委ねようと決意した時ね。
大好き!なテイストのものに、
大好き!という気持ちを乗せてみました。
では、歌います。

…とりあえず、
夜のブログ禁止令!

足とこころ。

地味に過ごしたクリスマスも終わりまして。

そういえば、去年はなにしてたのかな、と思って。

 

正直、記憶がほとんど無いのですが、

たぐりよせたら、雪山講習のスタートの日でした。

 

山岳ガイドの先生達が、クイズをやってくれたり、

フルーツポンチを作ってくださったり(担いでくださってた!)、

それはそれは楽しかった山小屋での想い出。

 

すら、たぐり寄せないと思い出せないくらいの1年でした。

ほぼ、気を失ったような状態で参加していたのではないかと。

 

実際、この1年、半分くらい気を失っていたような気がする。

いろいろ、受け止めきれなかった。

 

思い返せば、足の状態もその頃からおかしかったのだ。

2016年の11月の上旬くらいから痛み始めて。

 

雪山はだましだまし。

ところが、5月の上旬の最後の雪山をきっかけに

全く登れないコンディションになってしまった。

高尾山ですら痛むという状態に。

 

針灸師いわく「どうしてこんなになるまで放っておいた」と。

いや、私としては結構これでも痛みは取れて来たと

思っていたのでありますが。

 

でも、振り返ると、足の状態と心の状態は

まったくもって連動していたのですね。

 

心って自分ですら見過ごすことができて。

多分、足の痛みは、見過ごさないように出て来たような

ものなんじゃないかと。

私が、これだけぼろぼろになっているということを。

 

実際は、相当な痛みを発していたのに、まだ登り、

心はおろか足の痛みすら無視しようとしていたアタクシ…。

 

雪山はテンションだけで登っていたような

ものなんでしょうね。

あと、夏山に比べてゆっくり歩くから(初心者なので)

それもなんとかやり過ごせた要因かもしれぬ。

 

今、ボロボロだった足は、少しずつ本格的な

治癒に向かってきておりまして。

 

きっと心もそうだと思う。

ボロボロのボロボの底で、自分の心を選ぶ、

という決意をして、少しずつ形を取り戻してきた。

 

私が私の心を信じなければ、

足と同じように心も壊れていたかもしれない。

本当に、ぎりぎりの紙一重だったと思う。

 

外から見たら、ただの地味なクリスマスだけれど、

私は、自分が感じている気持ちを大切に、

ただ、今、おだやかにいられることに感謝できる

とても大きな意味を持つクリスマスでした。

サンタがやってくる♪

子供の頃「サンタクロースっているんですか」

的なタイトルの本を読みまして。

 

外国の新聞かなにかの

投書やりとりを本にしたものだったような。

 

謎が解決すると期待満面で読んだ訳ですが、

全くもって疑問が解決しないばかりか、

モヤモヤ感が増すだけだった衝撃は忘れられず。

 

今から考えると、モヤモヤ感が増すってことは、

結局、答えは自分の中にあるよ、ってことを伝えてくれてた訳で、

すごい本だったなあ、と思うわけですが。

 

自分の中にある答えを信じて生きようと思うと、

本当に自由になれる感じ、分かる気がする。

 

その答えにも感謝できるし、

答えを導くまでの道のりにも感謝できる。

 

どうもありがとう。

私は口よりも文章で言葉を伝えるほうが

楽なタイプの人間ですが、

いつか口で伝えられたらいいな。

 

口で伝えたい言葉もあるんだって、

思えるようになったのは最近のことです。

 

具体的な何かではないけれど、

なにかふんわりした感謝に包まれて

今日という日を過ごせることに幸せを感じます。

 

いつか、口で伝える勇気が戻ってきますように。

年の暮れ

特に苦労もしないで飄々と育ってきたような風で、

愛だのなんだの語るなっていう風向きが、

世の中には少しばかりあるような気がするのです。

 

私は、人を愛するという言葉を

結構、簡単に、使う方です。

 

すると、愛はそんなに簡単に語れるものじゃない。

薄っぺらいもんじゃない。

愛とかなんとか言ってるやつなんて信じられない。

とか、色々風にのって聴こえてくる。

 

なるほどね。

まあ、でも、その人がどんな過去を持っているかなんて、

実は、一番近い人でも分からないものですしね。

 

私は、実は、友人にも過去の恋人たちにも

誰にも言っていない経験があります。

多分、結構、壮絶なこと。

 

けれど、私はそれを自分のアイデンティティに

したくなかったので、言っていない。

多分、しようと思えばそれである意味、

一生食べて行けるくらいの経験ですがね。笑

 

私は、その経験にフォーカスするのではなくて、

そこから産み出されたものと共に生きて行こうと、

なんとなく思ったのです。最中の時期に。

 

それで、恨み、怒り、悲しみ、不安、恐怖などの感情に

毎日取り囲まれていたある時期に、その感情を、

ぐるっと、ものすごく強い餃子の皮みたいので

包み込んで飲み込んでみたんです。

 

そしたら、急に感情の質が変わった。

その変わった感情の質を言葉で表したら、

愛みたいなものかな、と思った。

 

そしたら、腑に落ちたというか。ね。

ああ、私は愛することができるんだ、って思って。

経験そのものを憎み続けることも、

糧として生業につなげることもできる。

全部、自分次第。

 

で、私は、愛することが出来る自分を

確かめたんだ、と思って。

 

だから、私は愛という言葉をよく使います。

自分の力を一番よく表した言葉だと思っているから。

といっても、ここ数年だけどね。

 

いつか、愛を交換出来る人と、

本当につながることができたら、

私は初めて、その人だけに話をするんだろうな、

なんて思います。

 

そういう意味では、とっておきの

いい経験をしたもんだ。

ブドウジュース。

すっぱいブドウなる話を仕事仲間から聞きまして。

 

手に届かないブドウは酸っぱいものとして片付ける、

自己防衛思考なるものらしく。

 

それに対して、甘いレモンなる比喩もあるらしい。

実は妥協しているのに、これでいいと自分に言い聞かせる。

 

恐ろしいのが、甘いレモンに慣れている人は、

甘いブドウが目の前にあっても手を出せなくなるらしい。

 

つまり、本当に望むものが目の前にあっても、

つい逃げてしまうそうで。

 

しかも、逃げている本人にとっては、

正当な理由がある状態だと思っているから、

逃げているとは思っていないらしい。

 

むしろ、論理的に考えて仕方ない、

こちらの選択肢のほうが正当である、と、

思っているらしい。

どこまで心が納得しているかは知らないけれど、

頭はそうロジックを組み立てているらしい。

 

てことは、まあ、甘いレモンが好きな人は、

ある意味、相当ロジカルとでもいうか。笑

 

自分を納得させるために、

毎日ロジックの強度を確かめているんだよね。

 

でもそれなら、甘いブドウを選んだほうがいいと納得できる

ロジックを作ればいいのに、と思っちゃうのは老婆心?

 

確かに、甘いブドウを選ぶためのロジックは

根拠に紐づくファクトに現実感が無くなって、

自信が持てなくなるんだと思う。

 

つまり、仮説に近づくから怖くなる。

 

でもさ、仮説ってふわっとしてるところが

あるからこその仮説であって。

ボトムアップで検証していったら

確度40%くらいのロジックをもとに

行動するって決めるから物事が動くんだろうしね。

 

事実なんてものがあるんだか無いんだか

ってところに立ち返ると、ロジックというもの自体が

一体なんなんだろうとも思えてくるわけで。

 

論理的に考える力があるなら、

甘いブドウを自分が食べるに値するということに対して

論理を構築していって、

その仮説に身体を慣らしていくのもアリじゃないかと。

 

まあ、無意識で甘いレモンを選んでいる人が

甘いブドウの存在に気付けるかという問題は残るのですが、ね。

 

甘いレモンを選ぶ人は、

・仕事とはこういう側面もあるんだから仕方ない(当たり前だ)

・仕事にはいいも悪いもない(なんでも受ける)

・恋愛なんてこういうもんだから(仕方ない)

的な考え方をする傾向があるんですって。

 

これ、ちょっとした指標になったりするのかしらね。

 

ちなみに、アタクシは仕事は選びまくり、

恋愛も思い込んでこだわりまくりではありますが、

変なところで自信がなくて

甘いブドウがなかなか手に入らないタイプ。

 

残念。

すきな曲。

「帰ってきたホフディラン」の中に入っている

「エバーグリーンな悩み」という曲が大好きなのです。

 

https://ototoy.jp/_/default/p/84554

 

歌詞はこちら

http://j-lyric.net/artist/a004701/l042ee6.html

でもまあ、歌詞だけっていうのもなんだけれど。

 

私は多分、必要以上に人のことを愛してしまう

傾向があるみたいで、

もっと軽く恋愛とか出来たら幸せなんだろうか、

なんて思うことも多々。

 

でも、この曲を聴いていると、

そんな自分でもいいんだよなあ、なんて

思えてくるのでした。

 

そんな自分を悲観的に捉えないで、

むしろ、誇ってもいいんじゃないの、

なんて、思えてしまう不思議。

 

ベイビーは純粋に家族への愛を歌ったのだと

おもうのだけれど、

純粋に愛を歌ってくれたからこそ、

私も救われた部分があるんじゃないか、

なんて感謝しているのであります。

 

 

青い空。

本当のところは、とても寂しいし不安。

怖いとまで感じるくらいに。

 

じゃあ、そんなもの手放してしまえばいいし、

今までの私だったらそうして来たと思う。

 

というか、もう何度も手放そうと

してきたのだけれど。

おかしいな。

 

もうこうなってくると、

自分の心のなかにある気持ちに

降参するしかなくなるね。

 

何もできないのだけれど、

何もできないから、

空にゆるい風が吹いていることを想像して、

その風に乗っかっていることまで想像して、

心の中の気持ちを味わっている、

実際は風の強い日。

誕生日。

本当は、毎日がそうなんだろうけれど、

その誰かに出会えたことに、

ただひたすら愛と感謝を持って時間をすごせる日って本当に幸せ。

 

私は、2月29日生まれということになっていて、

自分の誕生日の所在が良くわからないもので、

誕生日の過ごし方なるものも曖昧でやり過ごしてきましたが。

 

だって、あなたが生まれて来てくれなかったら

私の人生は、ちょっと違うものになっていたはずです。

 

それはそれで、きっと素晴らしい人生なんでしょうけれど、

私は、今の人生を、あなたが登場した人生を、

最高のものだと信じて疑わないから、

その存在には感謝するしかないのです。

わき上がる愛と感謝を身にまとう。

 

登場の仕方はどんな形でもよくて。

そこに居てくれることが全てなんだと。

 

そうやって、人の誕生日も、自分の誕生日も過ごせばいいんだって

気付いた秋の日なのでありました。

 

どうもありがとうございます。